1999年神戸大学卒業後、国立がんセンター中央病院、日本バプテスト病院訪問看護ステーションで勤務。2005年、母校である神戸大学に助手・助教として着任。勤めながら神戸大学大学院に進学し、2012年博士(保健学)取得。2019年度より現職。研究は、植込み型心臓電気デバイス(ICD,CRT-D)植込み患者への療養支援体制の構築に主に取組み、循環器看護、慢性看護、訪問看護、看護教育に関心をもっている。
私は、大学教員になって15年が経ちました。トピックとしてはコロナ禍での教育実践の工夫、とは思いましたが、このコラムを含めて、セミナーや学会での情報共有の場も増えています。私たちの生活は、世界的な異常な気象現象の頻発、政治・経済情勢の変化も大きく、‘withコロナ’に限らない“この地球、日本での新たな生き方”が必要とされ、それに伴う看護や看護教育のあり様も転換や変容が求められています。今回は、看護職として20年余りが経った私が、この数年、家族を含めた人生の転機に直面し、コロナ禍になったことで、改めて自身をふり返り、これからの看護や看護教育について考えたことをつぶやこうと思います。
私は、熊本で生まれ、昭和と平成を、福岡、神戸、東京、滋賀、京都と移り住み、令和と共に仙台に移りました。家族は、福岡、石垣島、横浜、京都に在住です。転々と移り住む中で、気候や景色、日の出・日の入時間の違いで、日本の縦の長さと共に、このような環境によって自身の生活リズムが作られていることを実感します。スーパーにある野菜や果物、お惣菜の味は、同じものでも質が違い、その土地の恵みや歴史、ひとびとの知恵を知ることができます。また、高齢者や遠隔地の方々とお話すると、外国語のように言葉が通じないことも多々あり、言葉だけでなく、人間関係の構築の仕方、自己の開き方も違います。さらに、患者さんの受診行動や治療への価値の置き方、医療職者と患者間の関係構築のあり様や、多職種専門職間の関係性(看護の立ち位置)等、その地域の歴史や文化に大きく影響を受けた違いに直面します。このような体験から、分かったつもりになっている自分や、その狭さ・浅さに気づかされると同時に、共通して揺るがない根幹も明確に実感することができます。
私は、訪問看護や在宅ホスピスに携わりたいと看護の道に入り、臨床はがん看護、訪問看護です。研究は、学生への実習指導を通して出会った植込み型除細動器植込み患者の方々への支援体制の構築がライフワークです。循環器看護の臨床経験がないことは、自分自身で弱みや引け目に思っていましたが(そう言われたことも何度もあります)、逆に、知らないからこそ、素直に対象に関心がむき、理解したいと思えたこと、自分の実践経験から生まれたアイデアや気づきもありました。また、院生や院生指導者として関わった研究室では、実に多様な対象、場、研究分野、研究方法を取り扱っています。このように、専門性がないという弱みに見えるかもしれませんが、看護の事象に合わせて、研究という方法で、看護を追究・発展・創造していくために必要な研究能力の多様性や柔軟性を育ててもらいました。また、基礎教育でも、教科書に留まらない、教育研究者だからこそ、研究での知見を用いた授業を行うことに役立っています。
コロナ禍でのこの半年、学内の役割上、教員の遠隔授業にあたる多くの困難感や葛藤を耳にする中で感じたことは、経験年数、年齢や職位に関係なく、信念(教育観や看護観、探究心、対人関係力)が揺らがない教員は、授業の方法が変わることへの抵抗感は低く、実現可能な中で学生主体に創意工夫ができ、多大な時間や体力・気力をすり減らしながらも楽しむことができる、そんな柔軟性や多様性があるということです。
‘新たな生き方’、そんな世界での看護教育・研究に携わる者には、これまでの人類の英知を広く学ぼうとする関心、そして、柔軟な視野と謙虚さをもち、多様性を尊重して、新たな知を創造する力が問われているのだと感じています。当たり前で常に変わらないことなのかもしれませんが、私は、今更ながらこの数年で強く実感しました。本学では今日から後期授業、臨地実習が始まります。このことを改めて胸に刻み、学生のためにその先にいる病む方々のために力を注ごうと思います。